円満産業株式会社では、富山の木製建具の製作、障子・襖(ふすま)・屏風・唐木家具・網戸の各種張り替え、ガラス戸・ドアの修繕まで何でも承ります!
平成18年5月末。私はあるセミナーを聴きながら興奮していました。「お父さん。私にやらせて!」と。富山という田舎でもインターネットで頑張っている企業がたくさんあるんだ!と講師の先生は熱く語り、そこにいた私は、父の遺した会社をもっと多くの人に知ってもらおう!と強く決心していました。
私には、ひょうきんで頑固な父がいました。ゴルフとお酒が大好きで、建具という仕事を最後まで貫き通した生粋の仕事人間。たくさんの希望を残してこの世を去った私の大事なお父さん。
平成16年夏、一番上の姉から「話したいことがあるから3姉妹で飲みに行かない?」というメールをもらいました。どんな話だろうと思いながら、数日後、私たちは久しぶりに近くの居酒屋で会うことになりました。仕事のこと、プライベートのこと、昔の同級生のこと、家族のこと、話は尽きませんでした。
そして最後に私は「ところで話したいことって?」と姉に恐る恐る話題をふりました。そこで初めて聞いたのが父の体調のこと。近頃、様子がおかしい、絶対何か大きい病気に違いない、だけど本人は嫌がって病院に行こうとしないと…。私は6年前に結婚し、実家を出ているので、父のそんな様子には全く気が付いていませんでした。あまりにも突然な話にとてもビックリしたのを覚えています。
姉が言うには、とにかくお父さんを説得して、お盆が終わったら病院に検査に行かせるつもりだ。お母さんは、お父さんがもし仮にガンだったとしても、抗がん剤といった体に負担の大きい化学療法を受けるつもりはないと言っている。一方で、凝り固まった考えの医師にどこまでたてついて拒否できるか不安に思っている、と言うのです。
まだガンかどうかも分からない段階なのに、そんな話まで出てきたことに私はとてもショックでした。そこまで話すぐらいなら、父もよほど体調が悪いに違いない。近くで見ている母や姉が、まるでガンと断定しているかのような話ぶり…。心がザワザワと落ち着きなく鼓動するのを感じました。
その後、父は精密検査に行き、数日後に母や一番上の姉と一緒に医師から病気の説明を受けました。その時、医師はまるで風邪か何かの軽い病気のように「末期の肺ガンですね」と言ったそうです。気になっていた私も、病気の説明があった当日に病院の食堂で母と姉と一緒に食事をし、父の病気のことを知りました。母が周りの目も気にせず、「お父さんがかわいそう…」とポロポロと涙をこぼしたのを覚えています。
人は、最初はガンという大きな病気を受け入れることができないと聞きました。私もそうでした。あの父が…、ガンのはずがない…、何かの間違いだと。けれど、一方で父の病気は少しずつ進行していき、辛い場面を何度となく目にするうちに、やっぱり父はガンなんだと受け入れざるを得なくなりました。
それから、父と母の闘病生活が始まり、初めは、奇跡のような出来事が起こりました。ガンに効くと言われていたサプリメントを大量に摂取した結果、大きかったガンが小さくなっていったのです。これには医師も驚き、渋々ながらもサプリメントの効果を認めたと言います。でも、父も母もこれで安心してしまったのです。ガンという病気を甘く見てしまったのです。そのサプリメントさえあれば、病気は治るんじゃないか、と。
しかし、小さくなったはずのガンもまた大きくなりだしました。ガンは一度覚えた薬には免疫力をつけるため、効果絶大と言っていたそのサプリメントも、その後はいくら摂取しても、それまでのような結果は得られませんでした。
父が何度か家で倒れるようになり、私たちは不安でいっぱいでした。そんな時、母が私に「本で知った新しいガンの治療法についてインターネットで検索して欲しい。」と言ってきました。私が見つけ出した病院は岡山という遠いところにありましたが、父も母も迷わず岡山に向かい、父はそこでしばらく入院することになりました。
その後、父は一旦退院し、しばらくは家で簡単な仕事をしながら療養生活を送っていました。しかし、また少しずつ体調が悪化し、今度は岡山の病院で紹介してもらった富山県内の病院へ入院することになりました。
父はその病院で何度か入退院を繰り返しました。あんなに元気だった父が弱っていく姿は見ていられませんでした。母は奇跡を信じて父にひたすら頑張って!と言い続けていましたが、私は心のどこかでお父さんをもう楽にしてあげて欲しいと願うようになりました。
そうして、平成18年4月12日、父は肺炎により病状が急変し、15日早朝、家族に見守られながら眠るように天国へ逝きました。あと5日で66歳になるところでした。亡くなる前日、ベットで眠る父に「一緒に花見をしようね」と言った私にうなずいてくれたのに、結局はその約束を守ることができませんでした。
今、思うのは、父も母も最善を尽くしたということ。母はああすればよかったこうすればよかったと今でもいろいろと話すことがありますが、私は母が純粋に父のことを「愛おしい」と言いながら一生懸命に看病していた姿を素晴らしいと思います。父もそれに応えるかのように必死になって病気と闘い、ガンに勝つんだと最後まで諦めませんでした。父のそういう男らしい姿を私は心から尊敬しています。
そんな父が、生前一番多くの時間を費やしたのが、建具という仕事です。父は生粋の仕事人間で、いつも夜遅くまで働き、お盆前や正月前は残業残業の日々でした。しかし、一方で友人も多く、飲みに行ったり、旅行やゴルフを楽しんだりと、結構楽しい人生だったのではないかと思います。
だからこそ私は、そんな父が遺した会社を、もっともっと多くの人に知ってもらいたいのです。父が必死になって築いてきたものが、この会社にはあります。いつも納期に追われながら、しかし妥協することをせず、職人気質で通した父の一番の形見がこの会社です。父は病気になった後、自分がいなくなったらこの会社はやめてもいいと話していたそうですが、残された私たちはどうしても会社をやめることはできませんでした。そこには父が過ごした多くの時間と思いが残っているのに、どうしてやめることができるでしょう。
父は、インターネットなんて…と初めからバカにして受け入れてくれませんでしたが、きっと今は天国からそういうやり方もあったのかとニヤニヤ笑っていると思います。私は少しでも父が遺してくれたこの会社をアピールし、多くのお客様に喜んで頂けるような住環境を提供していきたいと思っています。
長い文章を読んで頂きありがとうございました。 店長 井本友花
ご来店ありがとうございます。店長の井本です。昔ながらの和風なものから、遊び心溢れる斬新なものまで、木製建具のことならどんな小さなことでもお手伝いさせて頂きます。どうぞごゆっくりご覧下さい。
納得のいく仕事をするために、工事や取付に行ける営業エリアを車で1時間程度までのところに限定させて頂いております。
具体的には、富山市、滑川市、上市町、立山町、魚津市、黒部市(旧宇奈月町含)、入善町、朝日町となります。なお 、旧富山市以外の市町村の方はご相談させて頂きます。
>詳しくは営業エリアについてへ